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最高裁判所第二小法廷 平成4年(オ)756号 判決

上告人

朝日火災海上保険株式会社

右代表者代表取締役

越智一男

右訴訟代理人弁護士

山本孝宏

狩野祐光

河本毅

和田一郎

杉山克彦

被上告人

伊藤勝三

右訴訟代理人弁護士

宗藤泰而

前田茂

右当事者間の大阪高等裁判所平成二年(ネ)第一四〇三号退職金支払請求事件について、同裁判所が平成三年一二月一九日言い渡した判決に対し、上告人から一部破棄を求める旨の上告の申立てがあり、被上告人は上告棄却の判決を求めた。よって、当裁判所は次のとおり判決する。

主文

原判決中上告人の敗訴部分を破棄する。

右部分につき本件を大阪高等裁判所に差し戻す。

理由

上告代理人山本孝宏、同狩野祐光、同河本毅、同和田一郎の上告理由第一、第二について

一  原審の適法に確定した事実関係は、次のとおりである。

1  被上告人は、昭和五八年三月三一日、勤続期間三三年五か月をもって、上告人を自己都合により退職した者である。その間、被上告人の本俸の月額は、昭和五二年四月一日現在で二八万七六〇〇円であったものが、昭和五三年はそのまま据え置かれたが、昭和五四年四月一日に二九万九五〇〇円に、昭和五五年四月一日に三〇万六三〇〇円に増額された。そして、昭和五六年四月一日付けをもって、上告人が就業規則である給与規程を変更して、従業員の賃金につき、職能給を含む新体系への移行措置を採ったことに伴い、被上告人は、本人給と職能給とを合わせた基本給月額を三一万円と定められ、昭和五七年四月一日にはこの基本給月額が三一万四〇〇〇円に増額された。

2  被上告人が上告人を退職した昭和五八年三月三一日当時効力を有していた就業規則である昭和四六年一〇月一日付け退職金規程(以下「旧退職金規程」という。)によれば、勤続三〇年を超える者が自己都合により退職する場合には、本俸の月額に支給率として七一・〇を乗じた額を退職金として支給する旨が定められていた。

3  上告人とその従業員で組織する労働組合(以下「組合」という。)とは、かねてより、退職金制度の改訂に関して継続して協議を続けていたが、昭和五四年度(昭和五四年四月一日から同五五年三月三一日までの期間。以下の年度についても同じ。)についての賃上交渉において、昭和五四年度の本俸引上額は同年度退職者の退職金算定の基礎には算入せず、昭和五五年度以降におけるその取扱いは退職金制度改訂協議の中で協議決定する旨を口頭で合意し、次いで、昭和五五年度についての賃上交渉においても、同年度の本俸引上額を退職金算定の基礎に算入するか否かについては、昭和五四年度の本俸引上額の取扱いと併せて、退職金制度改訂協議の中で協議決定する旨を口頭で合意した。さらに、昭和五六年度及び昭和五七年度についての賃上交渉においても、上告人は、賃上引上額を退職金算定の基礎には算入しないことを賃上げを実施するための絶対の条件とし、組合は、これに不満を示しながらも、右条件の下で賃上交渉を妥結させた。

4  上告人と組合との右交渉の経過及び妥結内容は、被上告人を含む非組合員に対しても、上告人から従業員各人あてに配布される労使問題速報等の文書によって遅滞なく知らされた上、労使間の合意に沿った賃上額が非組合員である各従業員にも支払われ、被上告人も異議をとどめることなく、これを受領してきた。

5  以上の事情の下で、上告人は、被上告人の退職に際して、昭和五四年度の賃金引上額の内二〇〇〇円を除き前記の各年度の賃金引上額を退職金算定の基礎に算入しないで計算した二〇五六万二〇〇〇円を、その退職金として支払った。

6  その後、上告人と組合は、昭和五八年五月九日に、退職金算定の基礎額を退職時の基本給額とする一方で、退職金の支給率を減ずることなどをその内容とする労働協約を締結するに至り、これに伴い、退職金規程についても、同年四月一日付けで同趣旨の変更がされた。

二  原審は、右事実関係の下において、昭和五四年度から昭和五七年度までの賃金引上額を退職金算定の基礎に算入しない旨の上告人と組合との間の口頭の合意が、そのまま非組合員である被上告人をも拘束すると解する根拠はないから、被上告人は、その退職当時効力を有していた就業規則である旧退職金規程に基づき、退職時の基本給月額三一万四〇〇〇円に支給率七一・〇を乗じた二二二九万四〇〇〇円の退職金債権を取得したものというべきであり、右退職金債権の行使が信義則違反ないし権利の濫用に当たるともいえないとして、右二二二九万四〇〇〇円と上告人が支払った前記の二〇五六万二〇〇〇円との差額である一七三万二〇〇〇円及びこれに対する昭和五八年五月一日から支払ずみまで年五分の割合による金員の支払を求める限度で被上告人の請求を認容した。

三  しかし、原審の右措置は、是認することができない。その理由は、次のとおりである。

記録によれば、上告人は、原審の口頭弁論において、昭和五四年度から昭和五七年度までの賃金引上額を退職金算定の基礎には算入しないとの条件の下で上告人は賃金引上げに応じることを組合と合意したこと、このことはその都度被上告人を含むすべての従業員に周知徹底していたこと、被上告人も右各年度の賃金引上げは右の条件の下でされるものであることを知りつつ賃上げ後の賃金を異議をとどめることなく受領していたのみならず、支店長等の立場において、退職する部下に対し、退職金は退職時ではなく昭和五三年度の本俸の月額を基礎として算定されるものである旨を説明していたことなどの事実を主張するとともに、右の事実関係の下では、被上告人の退職金は、昭和五三年度の本俸の月額を基礎として算定されるべきである旨を主張している。右の上告人の主張には、右事実関係の下では、当事者間の雇用契約において、昭和五四年度から昭和五七年度までの賃金引上額は退職金算定の基礎に算入しない旨の黙示の合意が成立するに至っていたという主張が含まれていると解すべきである。そうすると、上告人と組合との間の合意の効力が非組合員である被上告人には及ばないとする原判決の説示だけでは、原審は、右の主張の当否について何らの判断を示していないものといわざるを得ない。したがって、原判決には、この点に関する判断遺脱の違法があるものというべきであり、右違法が、判決の結論に影響を及ぼすことは明らかである。この点の指摘を含むと解される論旨は理由があるから、原判決中上告人敗訴部分は、その余の論旨について判断するまでもなく、破棄を免れない。よって、民訴法四〇七条に従い、原判決中上告人敗訴部分を破棄し、右の点について更に審理を尽くさせるため、右部分につき本件を大阪高等裁判所に差し戻すこととし、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 中島敏次郎 裁判官 木崎良平 裁判官 大西勝也 裁判官藤島昭は、退官につき署名押印することができない。裁判長裁判官 中島敏次郎)

(平成四年(オ)第七五六号 上告人 朝日火災海上保険株式会社)

上告代理人山本孝宏、同狩野祐光、同河本毅、同和田一郎の上告理由

はじめに

原判決は、上告人朝日火災海上保険株式会社(以下、上告人会社という)に対し、被上告人伊藤勝三(以下、被上告人)への金一七三万二〇〇〇円の支払を命じ、その理由として、上告人会社が訴外全損害保険労働組合朝日火災支部(以下、組合という)との間でした昭和五四年度乃至同五七年度に至る各年度の賃金改定時の合意のうち、当該年度の賃上げ分を退職金算出の基礎額に算入しないという合意(以下、本件合意という)が無効であり、退職当時非組合員であった被上告人には効力がない旨判示するが、これはいずれも審理不審および採証法則を誤った違法があり、労働組合法第一四条及び民法第一条第二項、第三項の解釈を誤り、さらに判例違反を伴う違法なものであり、これが判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、破棄を免れないものである。

第一 本件合意の効力について

一 原判決は、労組法一四条の解釈に違反する。

1 原判決は、「昭和五四年度及び昭和五五年度においてそのような合意のあったことが認められ、昭和五六年度及び昭和五七年度においては、明示的な形での合意はなされなかったものの、被控訴人会社は賃上げ回答に当たり、各賃金増加額を退職金算出の基礎額にはねかえらせないことを当然の前提にしており、組合はこれに不満を示しながらも結局は妥結に至ったという交渉の経緯に照らし、被控訴人会社が押し切る形で暗黙のうちに右のような合意が成立したということができる」として、本件合意があったことを認め(原判決〈略〉)、他方「右のような合意が書面に作成され、両当事者が署名又は記名押印をしたという事実のないことは弁論の全趣旨から明らかであるから、労働組合法一四条の趣旨に照らし、仮に労使間において右合意を協定化、書面化しないとの合意があったとしても、右合意が労働協約として効力を有しないことはいうまでもなく、民法上の契約としての効力も有しないというべきである。」とし(原判決〈略〉)、本件合意に全く法的効力を認めない。

2(1) 然るに、原判決判示の如く、本件合意が書面に作成されず、両当事者が署名又は記名押印をしたという事実がないとしても、本件合意が絶対無効であり、何らの法的効果を有さないのではなく、「合理的な理由なくその趣旨を没却するような措置は、労使間の信頼関係を侵犯する行為として法的評価(たとえば、権利の濫用)される余地があ」り、「協定内容が実施されているような場合には、これが個々の労働契約内容となっている(黙示の合意・事実たる慣習により)と判断される余地があると解することが、労働組合法第一四条の法意である(東京大学労働法研究会「注釈労働組合法」下巻七一三頁)」。

(2) 上告人会社では、昭和五四年度の賃金改定交渉妥結時において、本件合意が形成されて以降、長期間に亘って右労使合意を内容とする多数の取扱いが反復継続して実施されてきており、右労使合意を内容とする労使慣行が明らかに存在していた。

(3) すなわち、「労働関係上の慣行も、当事者間の黙示の合意の内容となることによって、法的意味をも」つが、「労働関係の現場では、労働条件……などについて就業規則、労働協約、労働契約などの成文の規範に基づかない取扱いないし処理の仕方が長い間反復、継続して行われ、それが使用者と労働者(ないし労働組合)の双方に対し事実上の行為準則として機能することがあ」り、この場合労使慣行として「長年続いてきたある取扱いがその反復・継続によって労働契約の内容になっていると認められる場合には、その取扱いは労働契約としての効力が認められることにな」り、「このような慣行は、契約当事者間に継続的な行為の準則として意識されてきたことによって、黙示の合意が成立したものとされたり(黙示の意思表示)、または当事者がこの「慣習ニ依ル意思ヲ有スルモノ」と認めたり(事実たる慣習)して、労働契約の内容となる(菅野和夫「労働法第二版補正版」六四頁)」。

3(1) これを本件についてみるに、上告人会社は組合との間で昭和五五年三月一四日の昭和五四年度の賃金改定交渉妥結の際に、本件合意に至り、その後昭和五五年一二月一日(同五五年度賃金改定交渉妥結時)、昭和五六年一二月九日(同五六年度賃金改定交渉妥結時)、昭和五七年八月二日(同五七年度賃金改定交渉妥結時)、と、いずれも本件合意を行い、昭和五八年七月一一日に、定年・退職金制度改定等の妥結時に、右合意及び取扱いを明示的に解除する旨約したが、右間において、労使協議の場で、組合は上告人会社に対し、右合意及び取扱いに明示的又は黙示的に同意する旨度重ね表明しているだけでなく、組合及び組合員からは固より、被上告人を含む非組合員管理職の何人からも、その在職中、右合意及び取扱いに対して異議が出されたことはなかった。

(2) また、上告人会社は、昭和五八年三月当時従業員約七七〇名を有したが、昭和五四年度以降、昭和五八年三月末に至る四年間に亘る期間を通じて、本件合意に基づく取扱いを実施したが、その間の退職者数は計四五六名であるところ、うち、組合員であるか非組合員であるか、又定年退職者であるか中途退職者であるか、を問わず、退職時において、右合意内容による上告人会社の取扱いに異議を述べた者はおらず、退職後に異議を述べた者は、昭和五七年六月三〇日付で定年退職扱いとなった訴外水本毅及び昭和五八年三月末日付で任意退職した被上告人の僅か二名にとどまる。

4 よって、上告人会社には、被上告人退職時において、本件合意に基づく取扱いを行う旨の労使慣行が存在していたものであり、右取扱いは、また、後述のように、被上告人を含む上告人会社従業員の何人にとっても不利益性を伴わず、又は極めて合理的なものであったことからも、これが被上告人の退職時においても法的に有効な規範として通用していたものであるから、原判決判示は労働組合法一四条の違法な解釈を伴うものであることが明らかである。

5 上告人会社は、右点を本件第一審において主張し(〈証拠略〉)、且つ、(証拠略)「退職者一覧表」等によって立証をしてきたところであるが、原判決は右主張・立証に全く言及せず恣意的な判断に立ち至ったものであり、右法律解釈の違反とともに、この点での審理不尽、採証法則違反、ひいて重大な経験則違反を有すること、が明らかであり、直ちに破棄を免れえないものである。

二 原判決は重大な事実誤認がある。

1 原判決は、「被控訴人会社と組合は、昭和五八年七月一一日に至り、同年五月九日付協定書(労働協約)調印と同時に、『昭和五八年度以降の退職金算出の基礎額については、昭和五八年四月一日以降従業員各人に定められた基本給として支給される金額全額とする。これにより、昭和五三年度本俸に凍結されるという措置は解消する。』との付属覚書に調印しており、これは昭和五七年度以前の退職者については昭和五四年度以降の各賃金増加額は退職金算出の基礎額にはねかえらせない旨最終的、確定的に協議決定したものと解釈されるが、控訴人退職後の、しかも被控訴人会社・組合間のかかる覚書により、いったん発生した控訴人の被控訴人会社に対する退職金債権の額が左右されるいわれはない。」と判示するが(〈証拠略〉)、右は、本件合意が書面化又は署名・記名押印されたことがない旨の原判決認定事実に反し、退職金請求権発生時期をも誤認し、且つ判例違反をも伴うものである。

(1) 上告人会社と組合は、昭和五八年七月一一日、同年五月九日付「付属覚書」において、右原判決判示の外に「退職金の算出基礎額について、昭和五四年度ないし同五七年度の賃金交渉の中で、各年度の本俸(基本給)アップ分については退職金算出の基礎額には算入しない旨毎年合意をし、その通りの扱いをしてきたところである(各人の昭和五三年度本俸で固定し、それを算出基礎額としてきた)。」旨約定し、これを書面に作成し、両当事者が署名押印した。

(2) また、原判決は、あたかも昭和五八年三月末日の被上告人退職時において、被上告人の退職金請求権が確定的に発生していたが如き判示に及ぶが、失当である。すなわち、上告人会社は、昭和五四年度乃至昭和五七年度の逐年の賃金改定交渉妥結時に本件合意を行ったが、これは原判決も認めるように、各年度の本俸及び類手当引上げの合意と一体をなしていたとともに、同時に昭和五四年度に再開された定年・退職金協議のうち、退職金制度改定と関連し、昭和五四年度については「昭和五五年度以降の取扱いは退職金制度改定協議の中で労使協議決定する」旨の、昭和五五年度については、「昭和五四年度引上額の取扱いと合わせて退職金制度改定協議の中で労使協議決定する」旨の合意と一体をなし、また、その後の昭和五六年度、昭和五七年度のものも、逐年の退職金制度改定に関する労使協議の中で本件合意に基づく取扱いについての協議決定が約されてきたものであり、右事情は被上告人の退職時である昭和五八年三月末日当時も同じであった。

(3) その後、上告人会社は、組合と、昭和五八年五月九日付「協定書」において退職金制度改定に同意するとともに、同日付「付属覚書」において、原判決判示の右労使間の合意を解除する旨の合意をしたが、このような措置が近い将来において労使合意されるであろうことについては、被上告人自らも退職時である昭和五八年三月末時点で十分知っていた。

この点は、被上告人の右当時の労使協議内容の知見、退職動機からも明らかである。

2 右経緯によれば、本件合意は、逐年の賃金・諸手当の引上げ合意と一体となっていただけでなく、退職金制度改定協議とも一体となっていたものであるから、本件合意を含む逐年の賃金等妥結時において将来の退職金制度改定の労使合意成否未定の間は、本件合意による退職金額も退職金改定に関する労使協議の中でとり決める旨の条件が成就するまでの暫定的・過渡的な取扱いにすぎず、確定的に退職金債権として生じるようなことはなく、これは被上告人の退職金債権の額とても同じであったのであるから、原判決のこの点に反する認定は明かな事実誤認である。

3 なお、被上告人は、原審において、上告人会社の退職金の法的性格を「賃金の後払い」である旨断じ、それ故に右退職金改定時に書面上、本件合意を明示し、これを解消する旨約した点は、退職後の被上告人の退職金請求権に何ら法的効力がない旨主張し、原判決の「いったん発生した控訴人の被控訴人会社に対する退職金債権の額が左右されるいわれはない」との判示部分も被上告人の右論旨と結論を同じにするようであるが、右「2」に述べたように、被上告人の退職金の額は、右退職金制度改定の労使合意の成立に伴い労使間で協議・決定された本件合意の解除によって逐年の本件合意に基づく取扱いが最終的に確定したものというべきものであり、原判決はこの点でも失当である。

4 のみならず、上告人会社の退職手当規程によれば、退職金算定の基礎となる基礎賃金は退職時の本俸(基本給)であり、支給率は勤続年数に応じて逓増し、支給基準において自己都合退職と会社都合退職その他とを区別し、在職中の功労者や懲戒を受けた者等に対し退職手当を加増または減額・不支給することとなっていること等に鑑みて、功労報奨的性格をも有しているところ、この場合には、従業員の退職後の事情を以って当該従業員の退職金債権の発生及び額を左右することも許されるとするのが最高裁昭和五二年八月五日判決労働経済判例速報九五八号二五頁(三晃社事件)の趣旨であるから、原判決はこの点についても審理をし、上告人会社の退職金の法的性格について判断すべきであるにも拘らず、一切審理・判断を行うことなく、直ちに右誤った結論に至っているものであり、原判決のこの点に関する判示部分は、重大な審理不尽があり、且つ右先例にも反する違法なものである。

三 原判決は、上告人会社の退職手当規程の解釈を誤っている。

1 原判決は、「控訴人は、昭和五八年三月三一日勤続三三年五か月で被控訴人会社を任意退職したものであり、これにより退職当時効力を有していた就業規則である昭和四六年一〇月一日付退職手当規程に基づき被控訴人会社に対し退職金債権を取得したことが明らかである」(原判決〈略〉)旨、あるいは「右退職手当規程にいう退職の時の「本俸」とは、格別の事由のない限り、各年度の本俸(基本給)「増加額」を含めた退職の時の本俸であり、これが「退職金算出の基礎額となる本俸」であると解するほかはない」(原判決〈略〉)旨判示し、右退職手当規程所定の「本俸」又は「基本給」について、それが退職金算出の基礎額となるべきものであり、文言上は本件合意によるものか否かが明らかでないこと、よって被上告人退職時点における運用、過去の取扱い、慣行等によって判断すべきであり、本件合意に基づく右「一」で述べた取扱いの実状を考慮すべきである旨の上告人会社の主張をも何ら根拠なく一蹴しているが、この点も審理不尽による採証法則違反、判断遺漏を伴う失当なものである。

2 すなわち、

右「一」に述べた「労使慣行のなかには、労働協約や就業規則の不明確なまたは抽象的な規定に明確または具体的な意味を与える内容のものがありうる」とされ、この場合には「就業規則ないし労働協約上の規定の具体化としてのこのような慣行は裁判所において就業規則ないし労働協約の解釈基準としての地位を与えられ、結局それら規則ないし協約と一体の効力を与えられることになる」(菅野前掲書六五頁)ところ、この点に関して、退職金規定において、退職金算定の基礎となる「給料」とある場合、「基本給」の外「諸手当」も含まれるかという点について、先例も、それが文言上明らかにならない場合は、当該企業内における運用、過去の取扱い、慣行等によって判断すべきものとされている(東京地裁昭和五五年八月八日判決「愛国工業事件」労働経済判例速報三二巻五号)。

3(1) これを本件についてみるに、上告人会社においては、給与等規程の外に退職手当規程を有しているのであるから、文言上同じ「本俸(又は基本給)」との定めがなされていても、前者のそれが給与等算定基礎となるべきものであり、他方、後者のそれが退職金算定基礎となるべきものであることは明らかであり(なお、〈証拠略〉「給与規定」第一条は「職員の給与はこの規定の定めるところによる。」と定められ、〈証拠略〉「退職手当規程」第一条は「営業嘱託及び臨時の従業員を除くその他の従業員(以下、単に「従業員」という)に対する退職手当の支給については、この規程の定めるところによる。」と定めている)、他方、給与等規程上の「本俸(又は基本給)」を、退職金手当規程上の「本俸(又は基本給)」と同一視する旨の明文規定は存在しないのであるから、原判決は何ら理由なくこれを同一視したものであるといえ、理由不備に伴う違法があり、その経験則違反が明らかである。

(2) また、右退職手当規程所定の「本俸(又は基本給)」に本件合意が斟酌されるか否か、すなわち退職金算定基礎となるべき「本俸(又は基本給)」が昭和五三年度のものに凍結され、次年度以降の賃上げ分が入るか否かについては、上告人会社と組合間の労働協約上は固より、上告人会社の就業規則・退職手当規程その外如何なる社規においても文言上明らかでない。

(3) 因みに、上告人会社と組合間の労働協約には、非組合員である被上告人を含めた「従業員の労働条件の基準に関する事項は協議会に付議して組合と協議決定する」旨の定め及び「退職手当の支払基準については会社と組合が協議して定める」旨の定めがあるが、固より退職金算定基礎となる本俸(又は基本給)を、給与等算定基礎となる本俸(又は基本給)と同一視する旨の定めも、また、退職金算定基礎額が当該年度において具体的に如何なるものとされるかについて言及したものはない。

(4) よって、被上告人の退職時において、同人が受領しうべき退職金の算定基礎額が如何なるものであるかを定めるためには、被上告人の退職時までに上告会社において、本件合意に基づく取扱いがなされてきた経緯、実態に鑑みるべきところ、既に上告人会社が縷々主張したように、逐年の労使協議の経緯、本件合意の存在、これによる長期且つ多数の実例の実施状況、これに対する上告人会社内の労使の意識、さらに被上告人自らの在職中の対応、退職経緯等に鑑みるべきところ、これによれば、被上告人退職時の右「本俸」又は「基本給」が、本件合意に基づくものであり、上告人会社が上告人会社退職手当規程を適法に同人に適用したことが明らかであるから、この点に関する原判決判示もまた失当なるを免れない。

4(1) なお、原判決は、被上告人退職時の「本俸が、格別の事由のない限り、各年度の本俸(基本給)『増加額』を含めた退職の時の本俸であ」る旨判示するが、右判断の根拠となるべき事実及び理由を何ら示しておらず、これは明らかに理由不備による結論であるものというべきである。

(2) 他方、原判決は、「右格別の事由があるか否かは、次の三項において検討・判断すべき問題である」として、右「格別の事由」が本件合意において署名又は記名押印したという事実」(ママ)の存否のみを「弁論の全趣旨」によって考慮しようとし、本件合意に基づく取扱いの多数且つ長期に亘る反復継続事実があり、且つこれが上告人会社において継続的に退職金算定基礎額算定の準則として意識されてきた旨の上告人会社の右「一」に述べた主張・立証を一切無視して短絡的結論に及ぶが、右は無用の同義反復に外ならず、且つ理由齟齬による結論であるものというべく、この点も重大な事実の判断遺漏を伴い、経験則違反に立ち至っているものであって、到底許されないものである。

第二 本件合意の適用範囲について

一 原判決は、労働協約の解釈を誤っている。

1 原判決は、「たとえ、被控訴人会社と組合とが、労働協約のうちの「この協約において『従業員』とは、会社業務に従事する者であって役員でない者をいい、組合員及び非組合員を含む。」との四条の規定、及び会社は「従業員の労働条件の基準に関する事項」等を「実施しようとする場合にはこれを(労使)協議会に付議して組合と協議決定する。」との六六条の規定を根拠に、非組合員(管理職)を含む全従業員の労働条件について協議決定してきた経緯があり、右合意の内容が被控訴人会社の配付する労使問題速報等によって控訴人を含む非組合員(管理職)に知らされていたとしても、もともと労働組合が非組合員(管理職)の労働条件について使用者たる会社との間で協議決定する権限はなく、控訴人を含む非組合員(管理職)が右協議決定の権限を組合に付与したとの事実についても主張立証がないのであるから、右合意がそのまま控訴人を含む非組合員(管理職)に効力を及ぼしこれを拘束するとする根拠は存しないといわなければならない。」とし(原判決〈略〉)、あるいは、「被控訴人会社と組合とが前記労働協約の規定を根拠に非組合員(管理職)を含む全従業員の労働条件について協議決定してきた経緯のあることは前示のとおりであるが、前示のとおり右協議決定した事項がそのまま非組合員(管理職)に効力を及ぼしこれを拘束するとする根拠はなく」(原判決〈略〉)として、「被控訴人会社と組合及び非組合員たる従業員との間には、被控訴人会社・組合間で『協議決定』した労働条件は非組合員たる従業員に対しても効力が及ぶ旨の包括的合意が遅くとも控訴人の退職時までに形成され、又は被控訴人会社・組合間で『協議決定』した労働条件は、書面化されると否とを問わず、被控訴人会社、組合、非組合員を含む全従業員を拘束するとの慣行が遅くとも控訴人の退職時までに存在していた」との上告人会社の主張のような「事実を認めるに足りる証拠はない」(原判決〈略〉)として斥けているが、右論旨自体、既に明らかな論理矛盾を含むものであって、それ自体失当なものである。

2 すなわち、

(1) 本件合意が被上告人を含む非組合員(管理職)に効力を及ぼし、これを拘束することについての根拠は、右判示のうち、上告人会社の所論労働協約の規定の存在、及びこれに基づいて現に組合員・非組合員を問わざる全従業員の労働条件について労使協議決定してきた経緯及び事実そのものに求められ、これは上告人会社が本件第一審以来一貫して主張・立証してきたことである。

(2) 他方、上告人会社において、原判決も認める右経緯・取扱いと異なる事実が長期間に亘って反復継続された点については弁論の全趣旨によるも何ら立証されていない。

(3) なお、原判決は、「もともと労働組合が非組合員(管理職)の労働条件について使用者たる会社との間で協議決定する権限はな」い旨判示するが、これが如何なる具体的根拠に基づく立論であるのか判然としない点で審理不尽、理由不備があるだけでなく、被上告人退職時において、上告人会社において現に右労働協約の規定が存し、且つ現にこれに基づいて組合員・非組合員を問わざる全従業員の労働条件について協議決定していた経緯・事実が存し、且つ本件合意に基づく取扱いがなされていた事実が存する以上、右「権限」の存否が本件合意及びこれに基づく取扱いの効力に何ら消長を来すものではなく、この点でも原判決の理由齟齬による論理法則違反、経験則違反が明らかである。

(4) また、原判決は「控訴人を含む非組合員(管理職)が右協議決定の権限を組合に付与したとの事実についても主張立証がない」とも判示するが、抑々本件合意及びこれに基づく取扱いについては、被上告人に何ら不利益性が存せず、又は合理性があること、よって被上告人の個人的授権の存否は何ら問題にならない内容のものであり(原判決は、この点を審理不尽の侭、極めて唐突な結論に立ち至っている)、また、上告人会社において、右に述べた経緯、事実があり、実際に取扱いがなされてきており、然るに、その根拠が労働協約の所定条項にある以上、右の如き主張立証責任を上告人会社が負う謂れはなく、原判決のこの点の判示は、何ら合理的な理由なく恣に立証責任を転換したものであり、この点でも原判決の採証法則違反が明らかである。

3 なお、原判決は、本件合意の効力が被上告人に及ぶ理由に関する上告人会社の主張として、原判決〈略〉で「これに尽きるものである」旨、摘示するが、右に限定されないことは、上告人会社第二審第五準備書面の「一」で述べたとおりである。

二 被上告人の認識について

1 原判決は、「原審における控訴人本人尋問の結果中には、現実にも非組合員を含めた従業員全体の労働条件について労使協議決定することが明記されている労働協約どおりの運営がなされていたとの事実を認める趣旨の供述もあるが、右供述は抽象的、概括的な問に対してこれを肯定したものにすぎず、前記のような包括的合意あるいは慣行の存在を認めたものとまでいうことはできない」と判示するが(原判決〈略〉)、この関連部分は(証拠略)所収の「会社と組合の間に締結している労働協約では、非組合員を含めた従業員全体の労働条件については労使協議決定することが明記されており、現実にも労働協約どおりの運営がなされていた」との記載事実を直ちに被上告人自ら正しいと認めているものであり、これはひとり非組合員であった被上告人の認識にとどまらず、上告人会社、さらには右号証の作成名義に照らして組合の認識でもあったことは明らかであり、これは、上告人会社の主張する包括的合意又は慣行の成立要件のうち、当事者の「意識」又は「慣習ニ依ル意思」の存在を基礎づける極めて重要な根拠事実に外ならないのであるから、原判決はこれに対する著しい審理不尽があるものというべく、この点においても失当なるを免れない。

2 なお、被上告人は、第一審において、別に被上告人の退職動機として、被上告人退職時の労使協議の状況に照らして上告人会社の提案が組合に通れば直ちに被上告人の定年・退職金に変更が生じ、これが退職動機の一つでもあった旨の供述にも及んでいるが(〈本人調書等略〉)、この点は、被上告人の退職時においても、労使合意の効力が直ちに非組合員であった被上告人にも及ぶ旨の包括的合意又は慣行が上告人会社に存在したことを被上告人自ら具体的に認めており、右包括的合意又は慣行の存在を示す証左であるものというべきである。

3 また、被上告人は、在職中部下に本件合意に基づく取扱いの存することを説明し、あるいは在職中において本件合意及びこれに基づく取扱いを認識しつつ、退職時においても本件合意及びこれに基づく取扱いによる退職金額を何ら異議なく受領し、本件提訴に至るまで何ら異議を留めなかったものであり、右事実の経緯は原判決においても基本的に認めているところであるが、この点は、右の間被上告人において、他の多数の従業員と同様に暗黙のうちに従来の長期間に亘る取扱いに従う旨の意思、すなわち被上告人において上告人会社における包括的合意又は慣行に従う旨の意思を有していたことを推認させる根拠であるものと言うべく、右点を不問にする原判決判示は、この点においても、重要な事実に対する判断を懈怠し、著しい経験則違反に至ったものであって、到底受け容れることができない。

第三 信義則違反・権利濫用について

一 原判決は、未だ被上告人の本件請求が信義則に反するとか権利の濫用に当たるということはできないと判示する。しかしながら、右判断には、原審が確定した後記諸事実の評価を誤り、かつ上告人が主張した後記諸事実について判断しなかった点で、判決に影響を及ぼすことの明らかな経験則違反、審理不尽の法令違反があり民法第一条二項・三項の解釈を誤っている。

すなわち、被上告人の本件請求は、本来なら同人に適用されるべき労働条件が、たまたま書面化又は当事者の署名、記名押印がなされず、協約化又は就業規則化されていないことを奇貨としてなされたものであって、信義則違反あるいは権利の濫用となるものである。

二 右に述べた、原審が認定したが評価を誤った事実、及び上告人が主張したにもかかわらず原審が判断をしなかった事実は以下のとおりである。

1 上告人会社と組合とが労働協約の規定を根拠に非組合員を含む全従業員の労働条件について協議決定してきた経緯のあること、及び当該労働条件を就業規則化することによって非組合員にその効力を及ぼしてきた経緯のあること(原判決〈略〉)

2 上告人会社と組合との間においては、昭和五四年度から昭和五七年度までの各年度において本件合意があったこと(原判決〈略〉)

3 本件各合意が、右各年度の賃上げの当然の前提になっていたこと(原判決〈略〉)

4 本件各合意が、労働協約、就業規則等に書面化されていないこと(原判決〈略〉)

5 労使間において本件合意を協定化、書面化しない旨の合意があったこと(第一審被告準備書面〈略〉)

6 労使間の右「5」の書面化しない旨の合意が、組合の要求によってなされたこと、組合がそのような要望をした理由は、当時は退職金制度改定について労使で交渉中であったので、賃金増加額を退職金の基礎額に算入しないという暫定的・経過的措置が、書面化されることによって却って恒久化されることを組合が懸念したためであったこと(第一審被告準備書面〈略〉、第一審第一一回村上弘証人調書〈略〉)

7 上告人会社は、昭和五八年三月現在従業員約七七〇名を有したが、昭和五四年度から昭和五七年度の退職者四五六名(うち非組合員は五三名)のなかで、被上告人以外の者は、本件合意に基づく退職金を受領していること(第一審被告準備書面〈略〉、同準備書面〈略〉)

8 退職金制度の改定は、上告人と鉄道保険部が合体した昭和四〇年以来の懸案であって、定年制度の改定とともに、昭和五四年度賃金改定交渉以降、上告人会社労使間の懸案であったこと(第一審被告準備書面〈略〉)

9 右退職金・定年制度の改定は、被上告人にとって何ら不利益を及ぼすものでなく、又は合理的なものであったこと(第一審被告準備書面〈略〉、第二審被控訴人第一準備書面〈略〉)

10 本件合意に基づく取扱いが被上告人にとって何ら不利益を及ぼすものでなく、又は合理的なものであったこと(第二審被控訴人第三準備書面〈略〉)

11 被上告人が非組合員であること(原判決〈略〉)

12 被上告人が昭和五四年度から昭和五七年度まで、毎年度の賃金増加額を含む賃金を受領していたこと(原判決〈略〉)

13 被上告人が昭和五四年度から昭和五七年度までの賃金を受領した当時、本件合意があることを知っていたこと、これを知っていたことは、被上告人が在職中に自らの部下が退職したときにその部下に対して昭和五三年度本俸に基づき算出された退職金額の説明をしたこと、及び同人が昭和五八年三月三一日を任意退職日として選択した動機からも明らかであること(第一審被告準備書面〈略〉)

三 以上の事実に徴すれば、被上告人は、本件合意の存在を知りつつ賃金増加額を受領しておきながら、当該合意が書面化又は当事者間で署名、記名押印がなされず、協約化又は就業規則化されていないことを奇貨として、凍結に係る部分の退職金を本件で請求するのであり、これは、信義則違反あるいは権利の濫用と言わざるを得ない。

特に、永年の懸案であった定年・退職金制度改定を目指して交渉している最中に、組合から右「6」のような理由で本件合意を書面化しないことを要求された上告人会社に対して、その要求を拒否してまで当該合意を就業規則に規定することを期待することは円滑な交渉を阻害することになるので酷であること、及び昭和五四年度から昭和五七年度までの非組合員五三名を含む退職者四五六名(これは同期間末現在の従業員数の約六割に当たる。)のうち被上告人以外の全退職者が、本件合意に基づく退職金を受領していることに鑑みると、被上告人の本件請求が信義則違反あるいは権利濫用であることは、一層明白である。

四 なお、原判決は、被上告人が「労働組合の執行委員長を一期努めたことがあるといっても、被控訴人会社と合体前の旧鉄道保険部時代のこと」である旨、「管理職とはいっても一貫して支店の課長や支店長等にすぎなかった」旨判示し、本件請求が未だ信義則に反するとか権利の濫用に当たるとは言えない旨判示するようであるが、右「一」乃至「三」に述べたところから失当であるだけでなく、右のうち、合体前の鉄道保険部(原判決は、これを「被控訴人会社の前身の一つである」旨判示するが、事実に反し、なお、かような意味づけになる主張がなされたことは一切ないのであるから、弁論主義をも逸脱した違法な認定である)の労働協約の定め及び取扱いも上告人会社と同様に労使合意の効力が非組合員にも及ぶとされており、したがって、これをよりよく知りえ、且つ現に知り乍ら、又、在職中部下に本件合意を説明し、これに基づく取扱いが行われていることをよりよく知りえ、且つ現に知り乍ら、なお且つ在職中に異議を留めることなく、自らの意思で退職後、唐突に本件請求に及ぶことが法的・社会通念上許容されることはないのであって、この点の原判決判示も失当である。

第四 よって、原判決は速やかに破棄されるべきである。

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